「F1を、やめた人」。
俺みたいな人間にとって、この言葉は重い。 ドライバーってもんは、誰だって世界一速いクルマのステアリングを握りたい生き物なんだ。 ガキの頃、テレビで見たあの甲高いエンジン音、目にも止まらぬスピードに憧れて、このレースの世界に飛び込んだ。
だから、F1はいつだって最終目標であり、聖域そのものだった。
でも、気づけばその夢から遠ざかっていた。 そんな俺が、先日、あるドライバーの夢が叶う瞬間に立ち会うことになったんだ。 8月の富士スピードウェイ。 真夏の太陽がアスファルトを焦がす中、そこには信じられない光景が広がっていた。
お前は、子供の頃に本気で追いかけた夢を、今も胸に抱いているか？ これは、一人の男が夢を掴み、そして日本のモータースポーツが新たな扉を開いた、クソ熱い夏の日の物語だ。
目の前に現れたF1マシン。 エンジン音だけで鳥肌が立った件。
「今日はトヨタが支援したF1チーム、ハースが旧型のF1マシンでテスト走行をするらしい」
そんな噂を聞きつけて、俺は富士スピードウェイにいた。 ピットに鎮座するそのマシンは、俺が普段見慣れているスーパーフォーミュラのそれとは、明らかに異質だった。
「でかい…」
思わず声が漏れた。 タイヤも、ウイングも、何もかもがデカい。 見るからに威圧感が半端じゃない。 すると、ピットの奥から野太い、しかし乾いた音が響き渡る。 F1のエンジンが目を覚ました瞬間だ。
「うわ、音がすごい尖ってる…」
隣にいたヤツも同じことを感じたようだ。 スーパーフォーミュラのエンジン音も相当なもんだが、F1のそれはもっと硬質で、鋭利な刃物みたいに空気を切り裂く感じ。 魂を直接揺さぶられるような、刺激的なサウンドだ。
そして、GRトヨタのドライバー、平川亮選手がマシンに乗り込み、コースインしていく。 タイヤウォーマーが外され、ゆっくりとピットロードを進む姿。 しかし、ホームストレートに出た瞬間、そのマシンは異次元の加速を見せた。
「来た！これがF1だ！」
一瞬で豆粒みたいに小さくなって、1コーナーに吸い込まれていく。 そのスピードは、明らかに俺たちが知っている富士の景色じゃなかった。 コカ・コーラコーナー（今のダンロップコーナーのことな）に移動して、そのコーナリングスピードを間近で見たけど、もう笑うしかない。
「はっや…！速い、速い、速い！」
まるで物理法則を無視しているかのような速度でコーナーを駆け抜けていく。 地面に張り付くように、一切の無駄なく。 これが世界最高峰のダウンフォースか。 平川選手は、この日、ストレートで330km/hをマークしたらしい。
俺が戦っているスーパーフォーミュラの世界より、さらに30km/hも速い世界。 想像しただけで、背筋がゾクゾクした。
スーパーフォーミュラ王者・坪井翔、F1初搭乗前夜の心境
このテストの主役は、平川選手だけじゃなかった。 翌日、このF1マシンを初めてドライブすることになっていたのが、昨年のスーパーフォーミュラチャンピオン、坪井翔選手だ。
走行を終えた平川選手のデータを見ながら、彼は静かに、しかし熱い眼差しでモニターを見つめていた。
「どう？高まるものがある？」
俺がそう聞くと、彼は少し照れくさそうに、でもハッキリとこう答えた。
「そりゃ、刺激的ですよ。世界一速いクルマなんで。ちっちゃい頃から夢見てきたカテゴリーに乗れるっていうのは、本当に嬉しいです」
知ってるサーキットで、比較対象がある中で乗れるのはデカい、と彼は言う。 知らないサーキットで知らないクルマに乗るのは、何が正解か分からないまま終わっちまう。 でも、走り慣れた富士なら、クルマの性能に集中できる。 その違いを肌で感じられる。
「今日のデータを見れるんで、眠れない夜になりそうです」
そう笑う彼の顔は、緊張と期待で満ち溢れていた。 トップドライバーとしての冷静さを保ちつつも、心の奥底では、レース小僧だった頃の自分がはしゃぎ回っているのが手に取るように分かった。
夢が叶う瞬間。 F1マシンがピットから走り出す、その時。
そして翌日。 8月7日、午前8時47分。 その瞬間はやってきた。
ハースのレーシングスーツに身を包んだ坪井選手が、ピットに現れた。 表情は明るい。 でも、どこかフワフワしているような、夢の中にいるような感じにも見えた。 彼の周りには、信じられないくらいのファンが詰めかけている。
グランドスタンドも、1コーナーの先の観客席も、びっしりと人で埋まっていた。 みんな、一人のトップドライバーの夢が叶う瞬間を目撃しに来たんだ。
ヘルメットを被り、コクピットに収まる。 その背中には、彼をサポートするGRの文字が輝いている。
そして、エンジンに火が入った。
前日聞いた、あの鋭利なサウンドがピットに響き渡る。 その音以上に、坪井選手の心臓は高鳴っていたに違いない。 午前9時ジャスト。 グリーンシグナルが灯り、マシンはゆっくりと動き出した。
噛みしめるように、少しずつピットロードを進んでいく。 そして、慣れ親しんだ富士スピードウェイのホームストレートを、初めてF1マシンで駆け抜ける。
「うわ、はえぇ…！」
見ていた誰もが息をのんだ。 その場にいた彼の家族は、ピットアウトしていく姿を見て、涙を流していたそうだ。 「私たちの夢でもあるので」。 その言葉が、このテストの重みを物語っていた。
俺も、ただただ「何事もありませんように」と祈ることしかできなかった。 でも、一番楽しんでいたのは、間違いなくコクピットの中の彼本人だったんだろう。
SFより4秒速い！？異次元のラップタイムと「景色」の違い
走り出してすぐ、モニターに驚愕のタイムが表示された。
「1分18秒616」
ちなみに、坪井選手がスーパーフォーミュラで出した富士のポールポジションタイムは1分22秒台。 いきなり4秒近く速いタイムを叩き出したことになる。 同じサーキットを走っているとは思えない。
午前中の走行を終えてピットに戻ってきた彼は、ヘルメットを脱ぐと、満面の笑みを見せた。
「いやー、楽しかったです！最初はクルマが大きくて速くてビックリしましたけど、慣れてからはもう、夢の舞台で走れて最高でした」
タイムはさらに更新され、1分17秒795をマーク。 ついに17秒台に突入した。 初めてF1に乗ったドライバーが、いきなりこのタイムだ。 もちろん、彼がこのサーキットを知り尽くしていること、シミュレーターで走り込んできたことは大きい。
でも、それだけじゃない。 彼の才能が、F1という最高の舞台で解放された瞬間だった。
「景色は全然違いますね。似てるところもあるけど、ハイスピードコーナーとか、ブレーキとか…。ピレリタイヤも初めてだったんで、すごく新鮮です」
F1は、ステアリングについているスイッチで、できることが山ほどある。 それを学習しながら、英語でエンジニアとコミュニケーションを取る。 その姿は、まさにF1ドライバーそのものだった。 影で必死に英語を勉強していたんだろうな。 その努力が、また胸を熱くさせた。
「夢、叶えたよ」5歳の自分へ。ドライバーが流した涙のワケ
走行後、彼は少し目を潤ませながら、こう語った。
「5歳の時からカートをやってて、その頃の卒業文集に『F1ドライバーになりたい』って書いたんですよ。あの頃の自分に、『ちゃんと夢、叶えたよ』って伝えたいです」
特別な日になったな、と俺は思った。 一人の人間の、純粋な夢が叶った日。 プレッシャーに追われながら戦うレースの世界で、心からドライブを楽しむ。 それは、トップドライバーにとっても、そう簡単にできることじゃない。
この日、彼の走りを見ていた別のドライバーが、こう言っていた。
「自分のことのように嬉しい。日本でレースをやっていると、F1に乗れる機会なんて本当に限られてる。それを彼が叶えてくれた。彼が、日本のドライバーのために道を切り開いてくれたんだと思う」
そうだ。 これは、坪井翔という一人の男の夢が叶っただけの話じゃない。
これは単なるテストじゃない。 日本のモータースポーツの「文化」を作る戦いなんだ。
今回のテストは、トヨタとハースF1チームの提携があったからこそ実現した。 チームのトップは、このテストの意義をこう語っていた。
「坪井選手がスーパーフォーミュラのチャンピオンとして、どのくらいの実力があるのか。僕らがどれだけサポートできて、彼はこの先どう伸びていくのか。それをちゃんと測りたかった。これは、彼にとっても、僕らチームにとってもチャレンジなんだ」
トヨタのエンジニアやメカニックも参加し、人材育成の場にもなっていた。 単なるトライアウトじゃない。 本気で将来のチャンスを掴みに行くための、真剣なテストだったんだ。
そして、もう一人、日本のモータースポーツ界のトップが、このテストを「文化」という言葉で表現した。
「こういう取り組みを長く根付かせるためには、『文化』が必要なんだ。文化っていうのは、簡単には壊せないもの。一人の人間や、一つの会社だけで作れるものじゃない。多くの仲間との絆があって、初めて生まれるものだ」
なるほどな、と思った。 一人のドライバーの夢が叶う。 その裏には、チームの思惑があり、メーカーの戦略があり、そして、日本のモータースポーツを未来に繋げたいという、多くの人々の情熱がある。 点と点が繋がり、線になり、そして大きな円を描いていく。 それが「文化」を創るってことなんだろう。
この日、富士スピードウェイで起きたことは、間違いなく日本のモータースポーツの歴史に刻まれる、大きな一歩だった。
富士の空に響き渡った、甲高く、鋭利なF1サウンド。 それは、一人の男の夢が叶った音であり、日本のモータースポーツが新たな時代の幕開けを告げたファンファーレだったのかもしれない。
5歳の頃の自分に、「夢を叶えたよ」と報告した坪井選手。 彼の笑顔を見て、俺は忘れていた何かを思い出した気がした。 世界一速いクルマに乗りたい。 ただ、それだけを願っていた、あの頃の情熱を。
この記事を読んでるお前も、きっと何かを追いかけているはずだ。 それが仕事でも、趣味でも、何でもいい。 もし今、その夢を見失いかけているなら、一度サーキットに足を運んでみないか？
そこには、人間の才能と技術の限界に挑戦する男たちの姿がある。 魂を揺さぶるエンジン音がある。 そして、お前が忘れてしまった「何か」が、まだ落ちているかもしれないぜ。
次は、サーキットで会おう。
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